更新日:'06.09.03

タイの歴史

天使の都と呼ばれる「バンコク」、そのわけ

「クルンテープ・マハーナコーン・アーモンラタナコーシ ン・マヒンタラーユタヤー・マハディーロックポップ・ノッ パラッタナ・ラーチャターニー・ブリーロム・ウドムラー チャニウェート・マハーサターン・アモーンピーマン・アワ ターンサティト・サッカタットテイヤ・ウィサヌカム・プラ シット」

 さて、この呪文のような言葉はいったい何でしょう。日本では
「天人の都、雄大なる都城、帝釈天の不壊の宝玉、帝釈天の戦争なき平和な、偉大にして最高の土地、九種の宝玉の如き心楽しき都、数々の大王宮に富み、神が権化して住みたもう、帝釈天が建築神ヴィシュヌカルマをして造り終えられし都。」
と訳されています。
 実は「バンコク」という都市名は外国人による呼称であり、 地元タイ人はクルンテープ(天使の都)と呼びます。その正式名称で、世界一長い都市名として知られています。もちろ ん、タイ人でもなかなか覚えきれないそうです。

天使の都、その由来

1782年にチャオプラヤー川西岸から東岸に遷都する際に、新しい都の繁栄に願いを込め、「神の化身である王が住む土地は天使が守る」という意味から、「クルン=都」「テープ=天使」と命名されたということです。

クメール族のアンコールにタイ部族が南下(11世紀〜12世紀)

最近の考古学調査で、今から約4,000年〜7,500年前に世界最古の青銅器文明がタイ北東部のバン・チェン村一帯で繁栄していたことが判明されています。
その後モン、クメール、タイを始めとする様々な部族が中国南部から肥沃な峡谷地帯を経て、現在「タイ」の名で知られるこの地域に次々と押し寄せ、11世紀〜12世紀までの間には、クメール族がアンコールを遷都し、国土の大部分の覇権を制しています。
13世紀初頭にはタイ族がスコータイに最初の独立タイ王国スコータイ王朝を築き、以来、アユタヤ王朝トンブリー王朝、そして現在のチャクリ王朝と4つの王朝がタイ王国を動かしてきました。

 

スコータイ王朝(1238〜1438A.D.)

13世紀初頭、タイ族は揚子江南部から中国に圧迫されてインドシナ半島中央部に南下し、ラナ、パヤオ、スコータイの各地域に小都市国家を建設。タイの地域を支配していたクメール帝国に、1238年、タイ族の首長2人が反旗を翻しスコータイを攻略。ここにタイ民族の歴史上最初の国家スコータイ王朝を築くことになります。スコータイは、サンスクリット、パーリ語で「幸福の曙」を意味します。
 第3代のラム・カムヘン国王は、優れた統率力で国土を現在のタイとほぼ同じ大きさに広げ、先住民族のクメール人から統治制度を学び、豊かで自由な国家をつくりました。文化面でも小乗仏教がタイの国教として確立し、クメール文字を改良したタイ文字も創案。絵画、彫刻、建築、文学など初期のタイ芸術様式が誕生し、タイの伝統文化の基礎を築いています。スワンカローク焼はこの頃の中国との交流で学び生み出されています。
 14世紀中頃、ラム・カムヘン国王の死とともにスコータイ王朝は衰退。しかし、現在もラム・カムヘン国王は国の創始者、民族国家の象徴として国民から尊敬されています。

アユタヤ王朝(1350〜1767A.D.)

1350年にラーマティボディ1世により築かれたアユタヤ王朝は次第に勢力を広げ、ラム・カムヘン国王の死とともに衰退した前王朝のスコータイをも属国としました。また、初の法典をつくることで国内の基盤を固め、アジアでも屈指の大国となります。
 ボロムラーチャー2世はクメール帝国を攻略し、続くボロムトライロカナート王がクメール人から学んだ知識をもとに中央集権体制を確立。その一方でマレー半島までに国土を広げ、王朝は繁栄を極めました。この繁栄はポルトガルなど外国との交流を深めたラマチポティ2世から第14代プラチャイ王の時代まで続くことになります。
 16世紀後半に入ると、ビルマからの度重なる侵攻にあい、一時的にビルマの支配下に置かれました。しかし、ナレスワン王がアユタヤを奪回。その後もビルマの侵攻を数度にわたりくい止めています。
 同じ16世紀後半から17世紀にかけて、各国から商人がアユタヤを訪れ交易が盛んとなり、タイはその優れた文化を開花させました。日本からも山田長政らが渡り、アユタヤに日本人町ができるほど日本人にとっても魅力的な交易地だったに違いありません。しかし、ビルマの侵攻に抗しきれず、33代、417年間に及ぶこのアユタヤ王朝時代は18世紀に幕を閉じることになりました。 

トンブリー王朝(1767〜1782A.D.)

アユタヤの崩壊はタイ族にとってとても大きな痛手となり、混迷するタイ各地には多数の勢力が乱立。それを再びまとめたのがアユタヤ王朝では一武将だったピア・タークシン王です。中国人とタイ人の血を引くタークシンは、ビルマからアユタヤを奪還し、チャオプラヤ川をはさんでバンコクの対岸にあるトンブリーに王朝を築きました。歴代の王が成しえなかった、チェンマイまでも手中に収めた実力者です。
 王朝を築き、優れた功績をあげたタークシンでしたが、晩年には精神に支障をきたし、部下に処刑されるという最期をむかえ、トンブリー王朝はタークシン1代のわずか15年という短いものとなりました

チャクリ王朝(1782A.D.〜)

1782年、タクーシンの死後、彼に仕えていたチャクリがトンブリーの対岸バンコク(野生スモモの村の意)にチャクリ王朝を築きます。この王朝は現在でも継続している王朝であり、歴代の王はラマの称号で呼ばれ、現国王は第9代プーミドン国王です。
 19世紀には第4代、5代王により近代化が進められ中央集権を強化。チャクリ王朝でもビルマやカンボジアとの睨み合いは続き、ヨーロッパ諸国の植民地化攻策の波も押し寄せていました。しかし、近隣のアジアの国が植民地化されるなかでタイは独立を貫いています。
 この厳しい状況を乗り切り、欧米各国との不平等条約の撤回、郵便電信事業の開始、鉄道の敷設、軍政改革、教育制度の整備、奴隷制の廃止など数々の功績を残した第5代王チュラロンコーン王は、現在でもタイ国民の英雄的存在となり尊敬されています。 

絶対王政から立憲君主制へ

 20世紀に入り、世界恐慌とともにタイ国内の経済状況も悪化。国民の間で長く続いた王族専制政治への不信がつのり、1932年6月24日、人民党が無血クーデターにより政権を掌握。絶対王政は終わりを告げ、立憲君主政へと移行しました。
 同年12月10日には憲法が発布。民主主義を唱え、立憲君主政となった後も、タイの政権は軍部によって動かされていました。4つの国に囲まれ、以前から侵略の脅威にさらされてきた歴史的背景から、政治にも軍部の力が強く反映されていたのです。
 立憲君主制が施行されて以来、文民政権は誕生してもすぐに軍事クーデターによって潰されてきました。しかし、世界全体が平和な状態になっていくにつれ、「国を守るため」という軍部の建前は通用しなくなり、真の民主主義を求める国民の声は再び高まりを増しました。 

民主化への道

 1992年3月の総選挙では、民意を反映して反軍部政党が勝利を収めることになります。しかし、多くの議席を失った軍部は、民選議員ではなくスチンダ国軍司令官を首相に指名し、強行に軍政を維持しようとしました。これにチャムロン議員率いる国民のデモ集団が反発。軍隊がデモ隊に発砲する自体に陥りました。
 この事態で多数の死傷者を出し、国内は一時的に騒乱状態と化したが、国王の鶴の一声で落ち着きを取り戻し、次選挙では文民政権が樹立。タイは国民からの支持率も高いバンハーン首相のもと、真の民主化への道を模索することとなります。(2001年現在はタクシン シナワットラ首相)
 またタイは西と北にミャンマー、北東にラオス、東にカンボジア、南にマレーシアとその国境を接していますが、アジアの多くの国が経験した、植民地としての歴史をもちません。その結果、王家に対する国民の敬愛の念は変わることなく、立憲君主制に移行した現在も続いています。